もともと学部時代に歴史をやっていたこともあって
過去におきたこととその意味,というのを考え,
それを現在の自分の拠って立つバックボーンにする
という思考の立ち位置にずっといたと自分では思っている。
その一方で
いわゆる教養的なもの,
様々な「テキスト」を底本にした古典,哲学,公共的なものへの「共通理解」というものが存在し,
それになるべく寄せていき,共通の基盤を築いていく
ということがひとつの「理想像」であると思われるのに,
なんでそういった人間は常に少数派なのか?
なんで,タレント知事ばかり当選するのか?(ちょっと語弊があるけど)
とーるちゃんみたいなのが大人気になるのか?
「あんた,出始めの頃はへたくそやったけど,だいぶしゃべりもうまなったなあ」という評価で,市長選に立候補した元知事が票を獲得するのか?
それらがぼんやりとした疑問だった。
そんなぼんやりしたまま「歴史の意味を信じる」私に,この本の帯
「歴史は
「私たちの進路」を
もう照らさない。」
は,かなりの衝撃だった。
この本の構成は,大学で構築されてきた「歴史学」者としての著者が,そこを抜け出して大学を離れ,言論活動を再開するまでの時系列になっている。
その流れを通して,前書きや冒頭で述べられている地の文,
「必然であることが意味の基礎である必要はない。偶然から立ち上がってくる意味もある。」
「世界の全域で,歴史の存在感が薄らいでいっている事態を食い止めようとする学者時代の私の活動は,端的にいって徒労だった」
という考えに至った形跡をみせるという形と理解している。
しかしその流れを理解するのと別に,著者が大学に在籍されている期間になされたいくつかの対談の中に,私のぼんやりした問いへの答えとして納得するものがたくさんあった。
日本の中では,中世の頃から,「ナショナル」「国家」という枠組みや理念を理念として直接解することが難しく,すべて自分の身近な枠組み,物語に落とし込むことから理解や共感が始まる,という指摘。*1
また例えば,ヤンキーとポエム,気合と同郷愛と連帯感というものが政治にも前面に押し出されているという理解。
そして,過去の歴史に学びながら共通の土台を探って現在を構築していく,という姿勢自体が,もう70年代には崩れ始めていたという指摘。
そう意味づけたからと言ってどうなるものでもないが,私自身が本質に近いものを理解するのに十分な助けになり,とても面白かった。
そしてこれらの対談等のなかで,著者が非常に「わかりやすい」言葉を用いて表現することに心を砕いているように感じられた。
つまりは読み手に届くように,
他人事ではなく,「それでわたしたちはどうするのだ」と考えないと,
「もう歴史は何も導いてくれない」「歴史からは学ばない」というならば,何に拠るのか考えないと,
という問いかけである。
必然であることから意味が立ち上がるのではなく
偶然からも意味が立ち上がりつつ,
どこに軸足を置いてその意味を考えだしていくか?
それを,インテリとヤンキーとの二極分化ではなく,
より幅広い「皆」で共有しながら考えていくにはどうしたらいいか?
変な言い方だが,
著者の方は生まれてくるのが早かった,のだろうと感じる。
恐らくありとあらゆる場面において,様々なことが現在の枠組みを越えて,新たなフェーズに向けて動き出している。
それを,大学という場所,しかもその中で長い長い時間をかけて構築されてきた学問体系の中から外に出て,
(そして外に出るために重度の鬱という大きな過程を経て)
もう今のままではいられない
と訴えることの意味を思う。